scene#14 接点
初めて彼女の涙を見たのはボクと付き合い始める少し前で、いつものカフェでの出来事だった。ボクはいつものように彼女の横顔に見とれていると、普段は開くことのない手元の本に手をかけ無造作にパラパラとページをめくり始めた。その3分の2くらいがめくれたところでその手を止めた。彼女はしばらく本を見つめるとパタンと本を閉じて元の場所へ戻し窓の外へと目線を移した。そして右手の指先で頬を撫でると、また黄色いペンを手に持ち便箋へ何かを書き始めたのだった。
ボクは店を出るため彼女の座る席を横切るとき、ふと彼女の手元を見ると、空色の便箋にはいくつもの小さな水跡があり、まるで風が吹き揺れる水面のように小さく波打っていた。ボクは無意識に足を止め、しばらくそれを見つめていると、俯いていた彼女の目線にボクの足元が映ったのだろう、はっと顔をあげて、便箋を凝視しているボクを見上げて慌てて便箋を裏返しクシャクシャと丸めてバッグの中へと入れた。その中には何通もの封書が入っていたのをボクは見逃さなかった。
ああ・・・いつも書いている手紙は郵便ポストにいれることなく、もちろん誰の元へも届くことなく、ずっとあそこで眠っていたのか。
ばつが悪そうにしていた彼女を見て、ボクはその場を何も無かったかのように立ち去ろうとした。が、彼女はボクのジャケットの袖を掴んでボクに何か言った。小声でボクが聞き取れずに戸惑っていると、
「いいから、そこに座って!」
と、周りの客が振り向くほどの大きな声を出して、ボクを相席に座るように促した。その後は何を話すということもなく、まるで時間が止まったかのようにボクら二人の間で長く沈黙が続いた。でもそれは、アイスコーヒーの中でひしめきあう氷が溶け、それらが崩れてぶつかりあう音をきっかけに、ボクら二人の時間がまた流れ始めた。
「向日葵・・・」
「え?」
「その・・・ほら、あの時、ボクに言ったでしょ? 黄色いペンが向日葵みたいだって。あの時の君の笑顔、向日葵みたいだなって思ったんだ。」
「ねえ、それって、私の顔が向日葵みたいに丸いって言いたいの!?」
「違う違う。なんていうか・・・その・・・ゴメン。」
彼女は、両腕をテーブルの上で重ね、その上に右頬を押し付けながら、頭を下げたボクを覗き込んだ。
「あはは。謝らなくていいよ。ありがとっ。」
と、彼女から笑顔がこぼれ、安心したボクは水滴がびっしりとついたグラスを手に取り、溶けた氷で少し薄まったアイスコーヒーを一気に飲み干した。それを見て彼女は、またクスクスと笑った。
「ねえ、この本、貸してあげる。」
と、彼女は手元の本をボクに差し出した。
「いいの? 大切な本じゃないの?」
「そう、とっても大切な本だから汚さないでね。」
この本をボクに渡すことが、涙のわけを聞かなかったボクへの彼女の応えなのだろう。
「ボクは読むのが遅いから、いつ返せるかわからないよ。それでもいい?」
と聞くと
「その方がいいでしょ? そしたら、あなたとの接点がそれだけ長くなるもの。」
と言って、あのとき見せてくれたのと同じ向日葵のような笑顔を見せた。
この日を境にして、ボクは毎週末この場所で彼女の横顔ではなく、あの向日葵のような笑顔を正面から見ることとなった。